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死亡連絡

6時25分死亡

はくれん社 8時30分 来院依頼。(遺体引取り)

宮越さん、山久保、池袋、子供へ電話。

病院からの呼び出し

はな子さんの息遣いが怪しいので、病院に来るように連絡があった旨、筑後より電話。

これまでも、騒ぎが何度かあったから、同じようなことか。今度は、脳梗塞の後だから深刻か。
田舎のお袋を何とかしないといけないと思っていた。ずっと。重石のように心にへばりついていた。それは田舎を出てから、今日のこの日までずっと。

就職した後、東京へ移るタイミングか、転職を検討し始めた頃のこと。最初は、田舎で再就職をと思って、少し探してみたが、お袋自身があまり積極的でなかった。

それから数年。好きなお出かけに勤しんでいた日々だったのではないか。でも神は黙ってみていてはくれなかったみたい。バスの中で倒れて入院。家人を田舎にしばらく帰して退院を待って東京へ来てもらった。

延べ床100平米に近いテラスハウスは東京では決して狭くないが、クレームされた。自然が遠い。土がないのだ。田舎ものに容赦しない老人もいた。

信州に別荘兼用の家を建てる算段を始めた矢先、お袋はとっとと田舎に帰ってしまった。全く、処置なし。今尚、誰の手引きか分からない。その後は、あまり親子と思わないようにした。それに計画は止まらないから、その後は経済的にも結構苦しい日々を迎えることになった。

ある意味では、自分の人生はお袋の我侭に振り回されて来たようなものだ。

家事はやらない。子供の頃からの大切な記録類は勝手に全て捨ててしまった。ひどい話だ。もう恨みを言うことも出来ないけど。家を離れたら、直ぐにいろいろ始末を始めているから、許せない。
母一人、子一人になったときは世間が辛かった。何故自分だけの思いがずっとあったな。まだ多産が多い頃だから際立っていたと思う。

英会話のレッスンの席で、自己紹介も嫌だったな。寂しい家族状況を話さなければいけないから。

負の遺産

友治が早くに死んだ。友治は結核を患っていた。だから、自分の肺にもその痕跡がある。はな子は友冶が自分に近づいて密着することを嫌っていた。感染を心配していたのだ。症状は出なかったけど、人間ドックで調べると感染して封じている状況があるらしい。歳を取るとまた騒ぎ出すかもしれない。

感謝

お袋様

感謝の言葉を送ります。誰もが思うよりもずっと長く生きてくれて感謝します。今、自分の心にあいた穴の大きさを考えると、お袋様がずっと心の支えであったことが改めて分かりました。親の思いは形は見えなくても、ずっと自分を包んでいてくれたのだとも。

今回の脳梗塞は文字通り致命的でした。ややもすれば回復して退院も適うかなとの期待を吹き飛ばしてしまいました。親が何歳になろうとも、子は親の更なる長寿を願ってしまいます。しかし、今度ばかりは観念せざるを得ません。本人が頑張っているのに、子供が先にギブアップするのは恨みを買いそうですが、今は出来るだけ苦しまずに、安らかに旅立つことを祈らざるを得ません。

4歳直前から、19歳直前までの15年間の生活。本当に短い間だったけど東京での生活。でも、それだけが、お袋様との時間ではなかった。顔を合わせていなくても何かを通わせていた。それを失うのは本当にさびしい。せっかくリタイアして時間が自由になる矢先に、ピリオドを打ってしまうとは。息子の人生を見極めて、安心して旅立つなら絵になるけど、本当はもっと楽しいことを考えていた筈。ピリオドを打つのは今までの苦労の筈。

人生にたらればは無いけど、それでもいろんなたらればが思い浮かぶ。それらも、今は、一緒に送り出すしかありません。

誕生日

先の脳梗塞で言葉が話せなくなって、更に左半身不随になってから、3週間が経過した。自分の誕生日まで持つかどうかと思っていたが、クリアした。只、先週末から排尿が出来なくなって点滴も出来なくなってきた。実際は点滴は続けているのかもしれない。

看護婦さんからは今週が山とか。

回りでは葬儀の段取りを改めてチェックし始めたかも知れない。

母親の誕生日は9月。これのクリアはかなり難しい。

排尿が止まる

日曜日の連絡。それ以前から、排尿の量がどんどん減ってきていて、点滴が殆どむくみに回っていたと思うが、更に排尿が悪くなっていった。田舎からの連絡では、持って今週いっぱいの観測が看護婦さんから示されたとのこと。

危篤連絡

医科大学へ入った時点で見舞いを受けたし、東医者に移ってからも多くの人が見舞って下さった。

ただ、快方に向かって来たので危篤と言う感覚からは離れてきたが、東医者さんのお話では依然危険状態であることの理解が正しいとのこと。

自分の手で食事が取れるくらいまで回復していたが、5月初日に起きた脳梗塞は従来のものよりかなり重度なもの。

すわっと言うことで駆けつけたが、言葉のコミュニケーションは殆ど無理。ただこちらの言うことは伝わっているみたいで、わずかに動く手・口・まぶたでもって応えてくれた。

点滴での栄養補給でむくみは更に悪化するだろうと思う。

1週間ほど病院に通うが、ぎりぎりのところで症状が安定しているので、一旦、自宅に戻る。

現在は常に危篤状態のようなもの。ケサオさんのときも似たような状況になって、最後に言葉を交わすタイミングが得られなかった。というよりまさか死ぬとは思わなかった。

危篤連絡は、意識のあるうちに連絡しないと、後で寂しい思いをするものです。

喪家(そうけ)の行い

死者を出した家。西日本ではモケと読むことも。東日本では葬家と書いてソウケと読むこともある。確かに、喪家と書いてソウケとはなかなか読めない。

「喪家のなすこと」
  • 危篤の段階
  • 臨終の段階
  • 葬儀の準備
  • 通夜
  • 葬儀・告別式
  • 火葬
  • 精進落とし
  • 葬儀の後


  1. 危篤:
    危篤状態になったら、最後のコミュニケーションの機会が取れるように、あるいは臨終に立ち会えるように、近親者の招集をかける。必ずしも親族に限らない。近頃は前もって死期の推定が出来ることも多いので、早めの連絡が可能だが、本人に返って不安を与えるようではいけない。
  2. 臨終:
    清め式

誕生日プレゼント

VERA PELLE ITALIANA CONCIATA AL VEGETALE

No.0799965 E

Minerva Box

株式会社スリップオン
渋谷区広尾1-3-15電話03-5791-3883
http://www.slip-on.co.jp

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はな子さんが誕生日まで頑張ってくれたから、誕生日プレゼントが間に合った。いつもはもらえないものがもらえたのは今年はやはり何か違うということだね。

養子縁組

4歳になる少し前に、寅雄・けさをの元を離れて、養子縁組をする。はな子は既に35歳。

この養子縁組を取り持ったのが、町内の野村夫妻。

飛行機のおもちゃの話が出てくるが、そのことはまた罪を残した。飛行機のおもちゃを買ってあげるからと言うことで連れ出したのだが、結局、買わず仕舞いで子供心にも恨みを残した。後日、飛行機のおもちゃをはな子にねだる時があったが、はな子は野村へ行って貰ってこいと言って済ませていたから、子供の人格・人権などは意識の外、親の心の持ち方としても普通ではなかった。

バス中での転倒事故

「はな子」は既にいい年になっていたこともあっただろうが、バスに乗っていて転倒事故を起こした。バス会原因がバスの運転にあるかないかは分からないが、バス会社からは何の挨拶も無かった。

兎に角、入院先へ家人に介護に出てもらうだけで頭がいっぱいになっていたようで、原因も本人の病気という判断だけだった。

既に70歳前後だから、一人老人はやはり問題だと言う判断をした。

まつ

「まつ」は「はな子」の母親であるが、あまり印象が良くない。末っ子の次女を可愛がり、長女には冷たかった。「はな子」が脳に傷を持ってハンディキャップがあるから、更に冷たく当たったのか良く分からない。その辺も甚作がはな子を可愛がった要因だったのだろう。

「まつ」は1962年頃に「甚作」を追うでもないがなくなった。この時は、あまり感傷も無かった。




直接は誰からも聞いていないが、マツははな子の本当の親ではないかもしれない。戸籍を調べると母親はマツとなっているが、3人兄弟で一人だけ歳が離れていることを考えると、人作ははな子を可愛がったことを考えると、マツは多分後妻なんだろうと思う。

マツは栄子を可愛がりはな子を遠ざけた節がある。そのことをあからさまに、まだ子どもだった私の前で言いのけた。相手を子どもを舐めて掛かっていたのだろう。マツは年とともに性格が悪くなっていったように記憶する。

転落事故

「はな子」がまだ子供のころ、農作の手伝いをしていて、稲を干すハサバ、これは竹で組んだ背の高い垣根と言ったものだが、どうもここから落ちたらしい。詳しいことは聞けなかったが、この時に頭部に外傷を負い、内部も少し痛めたようだ。これが、10歳の時とすると、1927年頃の話と言うことになる。

この時の傷は、ずっと後まで尾を引くことになった。

「はな子」は食事を取るときに、毎回ではないが、ある頻度で、手にした茶碗を思わず放り投げるので、知らない人はもちろん、分かっている人も大いに驚く。

ただ、年齢が上がるとともに、頻度は少なくなっていった。あとから「はな子」を知るようになった人では、そういう持病の存在も分からなかったかもしれない。

霞町の家

霞町の家は甚吉が建てたものである。その頃の年齢は分からないが、大工の棟梁と言うよりは見習いに近い頃の仕事ではなかったろうか。

震災で廃材になったものなども利用したのではなかっただろうか。粗末な半2階建てくらいの作りであったが、当時の友治・はな子夫婦には十分なものだっただろう。

福井震災(福井自身)は昭和23年6月と記録があるから、その1,2ヵ月後の仕事だったのではないだろうか。

新たに作ったものか以前のもの立て直したのかは分からないが、甚吉がなす工作の一つ一つに友治が注文をつけていて、「はな子」は大いに困ったと後で話をしていた。友治が注文したことが功を奏したかどうか、その貧しい家は21世紀まで生き延びた。

甚吉の死

甚吉の死は唐突に訪れた。

体調が悪いながらも、甚吉ははな子を医科大に見舞うことが出来た。2008年3月のこと。

しかし、原因不明の病で右足を不自由しているだけで収まらず、4月に入ると危篤状態に陥る。約2週間の戦いの果てに冥福となった。



入院中の「はな子」には「陣吉」(あんちゃん)の具合が悪いことを伝えるが、その死を伝えることは無かった。はな子が気落ちして回復をあきらめることのないことを祈ってのことだ。

甚作の死

甚作は自分の死期が分かっていたようだ。自分が死ぬ数日前に、嫁ぎ出ていた長女の家と次女の家を訪問した。はな子は仕事に出ていたからだろうが甚吉に会うことはできなかった。記憶は正確ではないが1962年頃の夏ではなかったか。

甚作

甚作の出生のことは良く分かっていない。1890年頃の生まれではなかったろうか。

でもしっかりした人物であったことは間違いない。昔はみんなそうだったと言うがその中でも働き者だったのではないか。厳しい人間でもあった。

多分、次男だったのだろう。長男の家に隣に家を建て新家(あらや)を構えた。

はな子は所謂父親っこだったようだ。甚作がはな子を気遣う雰囲気は良く分かった。

兎に角、何でも一生懸命に取り組んだという印象がある。

誕生

はな子が生まれたのは、大正6年9月3日。巳年である。蛇年である。越前福井の山間にある20軒ほどの小さな村である。「甚作」と「まつ」の夫婦の最初の子として生まれ、はな子の後に長男の甚吉、次女の栄子が続いた。

大正6年

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