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お袋の夢を見る

久しぶりにお袋の夢をみた。霞町の家に戻ると、いきなりだったらしく驚いてお袋が振り向く。なかなか重くて荷物が動かせないと言う。

また金曜日が来た

また金曜日が来た。

マルが逝ってから、3週間。もう随分と経過したように思って、まだ3週間しか経っていない。

不思議だね。未来を描くときは、其処にはいつもマルが居る前提だったな。

マルが居ないと未来まで無くなったみたいで。

老後も、傍にはマルがいると思っていた。
マルが去ってから、急に涼しくなった。あの暑さは何だったのかと思わせるくらい。オリンピックが始まる日にマルは死んだ。

マルの居ない悲しさが不意に自分を襲う。

マルは何だったろうかと思う。

マルは子供らの代理をしていたのかもしれない。子供らしさを失って行った彼らの代理で、夫婦の情愛を受け止める役を果たしていたのかも知れない。

福井信用金庫

福井信用金庫から電話が入る。

先日のはな子名義口座閉鎖に関わる書類送付の結果に関するもの。しかし、その内容は通帳が入っていないとの連絡。今まで一度も通帳提示が必要とは言ってくれていないし、先日の送付依頼書にも記載がない。

通帳は、こちらにあるはずとの記載はあって、それは当然でしょうと言う事で、済ませていたが。

会社組織としての明確な基準あるいは要領などを示した文書が無いことも問題だな。田舎の信金に多くは期待できないものの、段取りが悪すぎる。市役所にも何回も足を運ばせるし、書類の送付要求も多い。田舎で顔見知りの良さを都会の管理のよそよそしさでスポイルしている。

ビジネスマンの基本が出来ていないね。送付状、送付依頼状。何を送って寄越したか、何を送って欲しいのか、箇条書きで書けば済むこと。テーブルにしても分かりやすくできる。

川崎さんにはかなりがっかりだね。人柄と仕事ぶりは似て非なる要素だから。

日課:Drive & Walk

マルの散歩とクルマのバッテリー切れたい柵で始めた日課。2008年2月25日から、月・水・金の予定として入れている。マルはドライブ散歩が大好きで結構続けて行く様になった。最初に、実際に出かけたのはデジカメ日記で確認するしかない。

Weekly on Monday, Wednesday, Friday
車のバッテリー対策。クルマでマルを連れて遠くの公園で散歩。相模原パーク他。
13:00-15:00 昼食後にお出かけ。」

この日課が無くなったのも寂しさを実感する1つです。

悲しいほどに今日は涼しい

お盆が過ぎて、今日はとても涼しい。マル君が逝ってから丁度1週間。1週間、耐える手段があれば、今年の夏を越せたかもしれない。暑さだけが理由で無いかもしれないが、恨みが残る涼しさです。

外出予定の記録

カレンダーに外出の予定を記録していた。マル君の面倒が見れないから、日程を組むときに配慮してもらおうとの算段だった。お散歩を一定のインターバルでやらないとマルが困るから。でも、もう、その必要が無くなった。寂しいけど。

秩父まで墓参り

基本的に、母けさをだけが眠っている秩父の墓に参ってきた。盆提灯が出ていたので、蝋燭をつけて灯りを取る。線香をたいて。お菓子を置いた。その前に墓石を洗って。誰かの線香を掃除して。水をたっぷりかけて。

けさをさんに頼んだのは、今年は悲しいことが多い。あの世に呼ぶのは一息付いて暫くそっとしとくれ。あの世に逝ったはな子さんと愛犬マル君を宜しく頼むと。

帰りは急に天気もおかしくなってさっさと引き上げるが、詰まらない渋滞もあって本当に疲れた。お袋さんからまだ帰るなと言ってきたのかな。

池袋は来ていなかったが、メールでは入れ違いだったみたいだ。30分ぐらい後に来たのではないかな。愚かな、泰義は出くわしたら文句でも言ってやろうかと思ったが、姿無し。

けさをさん、親として責任もって泰義に言ってやってくれ。親の仕事を唯一引き継いだのに恩返しも何もしないで、でしゃばり女の尻に引かれて、本当に恥知らずもいいところ。

マルの火葬

翌日の火葬は辛い。もう一日でも家において置きたかった。腐敗が始まってはいけないとの思いで翌日の予約。子供らは連絡をするも、火葬までには現れない。二人でマルを送る。

氷を入れたものをおなかに当てておいた。身体は硬直が始まっていて、寝ている姿のままタオルケットに包み、その上から白いシーツを巻いた。

可愛いマル君の最後のドライブ。


真心ペット動物霊園。普通のお寺、寿量寺の事業の一つとしてやっているみたい。

寿量寺:真心動物霊園
〒194-0203
東京都町田市図師町1016-1
042-792-9683
http://www.magokoro-pet.co.jp/
http://www.magokoro-pet.co.jp/map.htm

午後3時の予約。2時45分頃に着くと、実際の火葬場はまた別との事で、先導者の後を着いていく。20分以上も走ったか。プレハブ作りのような簡単な火葬場がある。一度に2つの遺体を処理できる。

真心動物霊園火葬場
〒194-0202
東京都町田市上小山田町 2083-11
042-797-5341

お包みからマルを出して台に乗せる。最後のお別れ。暫くの間、抱きしめていても尽きず。線香を上げて、お祈りをする。火葬台に載せる。もう人間と同じ手順。

待つこと1時間半。お骨拾いをして、骨壷に納めて持ち帰る。
8月8日。マルが呼吸を止めて家の中の空気はその瞬間に張りついたままだが、世間のときの刻みは止まらない。

マルのうずうずした仕草

散歩となると、なんとか、自分の行きたい方向へ行こうと、いつもチャンスを窺っているようで、リードの緩め方で、ダッシュが始まる。気の向かない方向だと、嫌々をする。

ある程度、行ってしまえば、あまり抵抗しなくなる。

疲れてくると、今度は帰りの方向に向かう。ところが、マルが帰る方向と思っているのが、必ずしも正しい訳で無いので、その時にはまた方向の争いが始まる。

流石に、覚えている道まで戻ってくると、正しく家に向かうので、さっさかさっさかと進む。とは言っても、疲れてしまった時は、それなりのスピードに落ちている。

忘れられないマルの顔

8月7日の夕方。マルは散歩に行きたかったのかもしれない。珍しく、仕事部屋を覗き込んで私を見ていた。苦しかったのかな。酷い我慢をさせてしまったのかな。後悔している。あの時のマルの顔を忘れられない。

翌日の病院での酸素マスクをつけた苦しそうな、なんとなく恨めしそうな、助けてと言っているような顔はもっと忘れられないけど。

結局は、お母さんが帰ってきてから、一緒に散歩に出たのだが。その時、初めて座り込んだままおしっこをしてしまった。ヒーコヒーコで歩けない。どうして、室内だと平気なのに、外に出ると呼吸が苦しくなるのか分からない。

でも、室内でも横になっている時間が多くなっていたのも事実だ。既に苦しかったのだろうか。



一時的に危機を回避しても、天使はやがては帰っていく。そうだとは思う。渡した違いなくなって知らない人の世話になるよりは、ずっと一緒に居られたのだから感謝するしかないのだろう。

いつまでメソメソ

いつまでメソメソしているのか。マルは天から使わされて、天に戻っていった。地上のわが家族との一員として、一緒に家族を支えてくれて、天寿を全うした。息遣いは無いけど、マルは家族の直ぐ傍にいて見守ってくれているに違いない。今までと全く同じように。おねだりをしてくれることは無いけれど、甘えてくれることは無いけれど、どうして欲しいかは心で分かる。

皆揃っている?誰も遅れていない?と止まって後ろを窺うマルの姿はもう見えないけど、マルの心配が無いようにしないといけないね。



家の中は、街の通りは、どこもマルの思い出でいっぱい。忘れるなんてとても出来ない。散歩で撮った写真、傍にはいつもマルが居た。マルは、写真を撮るのをいつも待っていてくれた。時には、嫌、多くの場合、早く行こうとリードを引っ張った。写真が下手なのはマルが引っ張るからと言い訳も出来た。

今日の散歩はどのコースにするか。同じコースが続くと嫌がったから、できるだけ新しいコースを選んでいたから、足を踏み入れていない路地は殆ど残っていない。何処もかしこもマルの思い出を引きずっている。

今、どうしたら、マルは喜んでくれるか。喜ぶマルの姿を確認できないけどイメージは出来るかもしれない。



マルの歴史館~博物館を作るのはどうだろう。目的をすり替える。皆がいつでもマルを思い出せるように。

心の張り

「心の張り」って良く聞くが、マルが亡くなって2日目。どういうものだろう。何もやる気がしない。何かしても気が入らない。マルのケアといっても大層なことをしていた訳でも無いのに。いつも気に掛けていただけなのに。

でも、考えれば、生活の全てにマルがいた。生活のリズムそのものがマルをベースにしていた。食事の時のお味見、お八つの時のお味見、お散歩、デジカメ撮影、ペットフード、塩抜きダシ雑魚、公園ドライブ、「おすわり」、「おて」、「おかわり(=これは出来ず)」、「バックバック」、「ころん」、「おさんぽ」、「まて」、「ふせ」、「じゃんぷ(=今はできない)」、「ポールの同じ抜け(=リードのぶつかり回避)」、「すてい(=なかなか出来ず)」、「ついて(=ぴったり付きは時々だけ)」

お味見のときに、指を少し曲げるだけで、自制する。しかし、舌だけは伸び出てくるのがとても面白い。

マルが生きている間はワゴン車。クルマで旅行なんてことも考えていたのに、それが葬儀の旅行で、面倒も十分見れなかった。グリーンセンターも出かけた。少し苦しそうだったな。2回ほど、ヒーコ、ヒーコになって。

妙高山にも連れて行きたかったな。

「はな子」は我が儘なだけだ。自分のことしか考えていない。誰かのために何かするってことは無いみたい。褒めることも無い。悪いことをした訳ではないが、親として最低限のことをしただけで。

マル君、長い間、家族で居てくれて有り難う

マル君、

今日まで長い間、家族で居てくれて有り難う。子は鎹(かすがい)と言うけど、マル君ほど家族の鎹になってくれたものはいない。疑う心も、隠し事も、濁ったものは何も無い。マル君、君こそが、家族のことを思っていてくれた。

命を引き取ったのはとても辛い。君の声も仕草も佇まいも何もないのは想像するだけでも本当に辛い。

身体に力が全く入らない。全てに関心が持てない。こういうのを放心状態と言うんだろう。

お母さんは、さっきからずっと何か手を動かす仕事をしている。手を止めれば、悲しみが噴出してくるからだろう。

今、何をしていても、マルがお母さんにまとわり付くことは無い。じっと、横になったまま。眠るように、すぐ其処の玄関に居る。

食事を始めてもテーブルに寄ってこない。



4月下旬(見舞い)、5月の連休(脳梗塞)、5月下旬(葬儀)、7月上旬(忌明け)と、福井への長旅4回は、想像以上に負担を強いていたのだろう。特に7月の初夏の日差しの中では、本当はものすごく辛かったのかもしれない。悪いことをしてしまった。



家の中では落ち着いていたのだから、家に帰るべきだったか。病院なんか行かなくても良かったかも。死ぬなら、家で、大好きなお母さんの傍で。夕方までずっと待っていたのに悪いことをしてしまった。そうか、連れて帰れば良かったか。車に乗せなければ良かったか。死ぬって分かっていたら。ずっとマルの傍にいてやりたかった。

お漏らしは、7日と8日の2日だけ。それも、夕方だけ。ずっと我慢してくれていたのね。



マルが居ると海外旅行も出来ないなんて言っていたが、マルの居ない旅行なんか詰まらない。今は、はっきりそのことが分かる。

マルのことを心配しながら、お出かけする。尻尾を振って迎えてくれるマルが居る。帰ってもマルの尻尾が無いなんて、悲しすぎる。寂しすぎる。

忌明けの引出物

ヨックモックの「ドゥーブルジュレ」の詰め合わせ。長野東急から逐語に先に送る。楽天だとこの商品はながの東急のみの扱い。

1箱3150円。

自分用にもと計10箱を手配。

銀行口座解約

銀行口座を解約するが、これが結構面倒。

相続人全ての合意に基づく解約申請でないといけないみたいだ。相続人がこれで全てと証明できることが必要と言うが実際には無理。銀行が方法論を示さないで言うだけ勝手では困る。一応以下の4点を準備するように言われた。

除籍謄本
戸籍謄本
印鑑証明
実印



実際に提出した書類。

  1. 預金払戻請求・計算
  2. 振込依頼書
  3. 印鑑登録証明書
  4. 死亡届
  5. 相続依頼書
  6. 坂井市証明書:除籍(全部証明書)
  7. 坂井市証明書:改製原戸籍
  8. 坂井市証明書:戸籍簿(2枚もの)

これで終わるかどうかは不明。

正善寺

正善寺からいきなり手紙が舞い込む。

説法の案内。これはどうってことない。しかし、ご近所お誘い合わせて行ける訳無いでしょう。

永代経法要の意味と称する説明書き。これもどうってことない。

運営資金納入依頼が入っているのは驚いた。しかも書き方が未納となっていると去年のことを書いている。まるでこちらを債務者のような言い方。何か約束している訳でも無いのに。それなりの説明と納得があって初めて協力しましょうかということが成立するものなのに、あまりに一方的ですね。

平成19年度 12,000円/年
平成20年度 20,000円/年

少々呆れている。それに費用負担できる余裕は無い。

赤坂聖苑

0776-67-5300

坂井市赤坂聖苑

丸岡の火葬場。

会食、法要の施設もあるが、利用者は少ない。別当にするくらいの工夫が無ければ、心理的にここで何かを言われても無理でしょう。

御布施

永代経:10万円
野布施その他:10万円
親戚永代経:1万3千円(1千円×13人)(全員で13人だから親戚だけだともっと少ない。払い過ぎ。)

5月27日、納骨時の清算は以上。

小松屋への支払い

請求書を貰ったが振込先の記載が無い。電話をして確認するが、待たされて漸く番号が出てくる。さて、振り込むが口座番号が6桁で教えてもらってそのまま入力。エラーでやり直しになるかもしれない。

手間だな。

月曜日に銀行をチェックしなければならない。

葬儀の時の前回はわざわざ支払いに行ったのだが、その時は調理場を覗く形になって。魚屋の調理場を覗いて良いことは無い。臭いはするし、ハエもいる。忌明けの時は遠慮したいと思ったのだが、他に店が無いということで、やむなく今回もということになった。

形見の印鑑

母親の形見の印鑑をそろそろ現役引退させようと思う。形見と言っても亡くなった時はばたばたしていたのか無視されたのか分からないが、形見分けには預かれなかった。形見の印鑑と言うのは、まだ生家が丸岡にいた時に、「けさを」から貰ったもの。ただの認印だけど小学生の我輩は非常に嬉しかった。その後手放すことも無く特別な認印として使ってきたものだ。 今朝を煮は編めることが出来た記憶は無いが、多分、途中までは大甘えだったろう。突然の悲劇が訪れるまでは。あの世へ行ったら、あの世で今朝をとめぐり合えたら、今度は誰にも遠慮しないで甘えさせてもらおうと思う。 「けさを」は言っていた。日立まで夫婦で来たときのことだ。神様が授けてくれた一番の宝を私たちは外に出してしまった。家がうまくいかないのは神様の罰が当たったから。親としてしてはいけないことをしてしまった。と。心配していた子供が、ようやく就職して独り立ちしたのが、本当に嬉しかったようだ。名古屋から日立へ直行だが、寝具とかも買ってあって、今まで何も出来なかったことへのうらみもあったようだ。 ※ 「はな子」も旅立った。二人の母親がどんな会話をしているか。

世間を狭くしたのは生家そのもの

美枝子姉が口にした「世間を狭くした」だが、繰り返すことになるが、生家そのものだろう。 ・家督を継いだ寅雄は家に落ち着かず、出稼ぎ稼業。 ・長男敏夫はぶらぶらしているだけ。田舎では顰蹙ものだろうね。 ・四男を里子に出してしまう。無責任。そのくせ、五男を儲けている。無責任の上塗り。 ・次男の泰義を高校に入れたは良いが中途退学を余儀なくさせている。 ・どういう勝算があってか分からないが故郷を捨てて東京に出て行く。 ・先祖から引き継いだ身代を全部無くしてしまう。 ・全員が中卒止まり。泰義は中退させる、英雄は引越しにかまけてチャンスすら与えられないは、政行なんて殆ど勉強できる環境が与えられない。学費援助を願い出てもあっさり断ってくる。月3千円、3年間で約10万円だったけど。 ・職人なら学歴より技術・技能。教育に不熱心でも職が身に付けばよいと。でもそれも泰義には当てはまっても他はそうは行かない。学歴も技術も無いまま、結局、何が残っているんだろう。 警察の家宅捜査、都営住宅への転居、生活保護申請、。生涯独身の長男と末っ子。 これで世間が広い分け無い。 ※ 人の馬鹿さ加減は良く分かる。自分の愚かさ加減はなかなか分からない。

小松屋

忌明けでも利用した丸岡の料理屋。他に料理屋らしいものが無いからと言う事で、葬儀のときに続いて利用する。

料理の味自体は悪くないのだろうが如何せん素材に金を掛けていない。粗利率を相当高く設定している。

山久保の接待料理は竹田の大杉を利用。民宿みたいな体裁で雰囲気は今一つとしても料理は素材・ボリューム共に申し分ない。テークアウトも出来る。一人当たり如何程の設定かは分からないが、満足度は高い。頼めば送り迎えのマイクロバスも仕立ててくれる。竹田の渓流は昔から怖い眺めだが、夏場はそれも悪くない。

次回、機会があるかどうかは怪しいが、大杉を使いたいね。

さて、小松屋。

請求書に振込先の記載も無い。こういうものは電話での確認は嫌だな。と思っていたら、案の定、桁数が合わない。近頃は何処でも7桁表記なのに6桁での連絡。そのままインプットしたから、エラーで戻ってくる可能性あり。

◇料理:5千円/人

感覚的には3千円ぐらいのレベル。席料が別と考えると2千500円ぐらいの実力。食べられない細身のカニの部分が入っていてもね。煮物は割りと評判が良かった。

◇お茶:ウーロン茶(小瓶):200円/本

サントリー烏龍茶 200ml瓶は市販価格は100円少し。粗利50%設定みたいだ。サイダーも同様だろう。普通の日本茶で良いのだが、それは無料だからか出てこない。

◇引出物:6千円/セット

これは圧巻。まあ、数が少ないので高目を指定したのだが、相当だね。流石に市販品のセット販売だから、10%バック(値引き)している。個の場合の粗利は2割程度に抑えているかもしれない。目立つからね。



丸岡町・富田(番地が無いの?)
電話:0776-66-0015

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本山へのお布施は2万円

本願寺に納骨に行くには、お寺の証明書みたいなものが必要になる。住職さんが忌明けの時に、署名捺印したものを渡してくれた。

京都には何時行くことになるかな。

住職さんが言うには、「お布施は2万円以上してください」とのこと。正善寺さんに出した忌明けのお布施が2万円だったから、それを下回ってはいけないということ。と思う。お布施を5万円していたら、それが本願寺の下限値になる。のでしょう。

サイフに余裕が無いから、結局、2万円を包んで持っていくことになりそうだ。

ところで、「お東さん」「お西さん」のどちらでしょう?。よく知らないは、このお寺は「お西さん」らしい。間違えたら大変なことになるかな。

ご霊前・ご仏前

49日が精進の期間。49日をもって忌明け(きあけ)の儀を行う。

「はな子」の命日5月25日。7月12日が忌明けとお寺さんから言われたが、5月:7日。6月:30日。7月12日。命日から数えて確かに49日になる。

忌明けのお経さんを貰う。15時から正善寺にて。普通はお仏壇にお経を貰うらしいが、生憎、仏壇は移してしまったので、お寺でお経を貰う。お墓も「はな子」にはまだ用意されていない。墓が無いのは「友冶」も同様である。友冶の場合は遺骨すら所在は分からない。何処かに撒いてしまったか、本家の墓に仮納骨したままか。記憶を辿ると後者のようだ。

お寺では「お布施」として¥20,000.を包む。他にお寺さん用に菓子折りをつける。これは雰囲気では3千円程度。

ご仏前として現金とやはり供物としての菓子折りが届けられるが、現金については以下の塩梅。

  • Kita Yoshiyuki|10,000.
  • Shimoda Masahiro|5,000.
  • Shimoda Shinichiro|10,000.
  • Tanaka Makoto|20,000.
  • Yamada Fujio|20,000.
  • Yamamoto Torao|200,000.
(6軒計26万5千円)

足の悪い人が二人(寅雄、小雪)いるため、椅子を用意してもらう。お経、お焼香のあと、記念写真を撮って正善寺は終了。

場所を正善寺から、料理を振舞う小松屋に変える。歩いても5分も掛からない距離だが車で移動。車を取りに戻るのが手間だし。

この町には気の利いた料理屋がなく、葬儀の後と同様に小松屋を会席に利用。一人5千円の料理。他にドリンク代だが、車で来る関係でアルコール類はゼロ。ウーロン茶。この店はしかしウーロン茶を小瓶で出すという始末の悪い店だ。酒の売り上げが伸びないからの工夫だろうが、益々客離れするだろう。主催者挨拶のあと、淡々と食事。主催元がお茶をついで回る。酒で無いから今一ですね。

ここの料理は、どうにも美味しくない。嫌、普通の味だから不味いというほどでは無いが、食材・素材が貧弱。大した人数でも無いのに作り置き感が強い。竹田の大杉の方がはるかに美味しい。

食事が一段落すると、供物をばらばらにして詰め替えの作業。引出物と一緒に持って帰ってもらうため。前回の葬儀の後の引き出物はこの小松屋で用意してもらったが、何が振舞われたか良く分からなかった。生活品の類だったと思う。

今回はヨックモックが今年のお中元用に開発したダブルゼリーを取り寄せて引き出物とした。これ安くは無い。¥3,150.

ここでは特に記念写真も無く、引き上げる。

家族を福井のホテルと駅まで送る。

泰義に要求する"けじめ"

泰義殿の不義理・無礼に対しては以下のことが”けじめ”として必要になる。
  1. 「はな子」霊前へのお参り。仏壇及びお墓。
  2. 御香典及び御霊前の手持ち・お供え。
  3. 危篤・逝去に際して無視し続けたことの説明。

上記適わない場合は、遺骨・位牌を持って西東京・東久留米宅または他の場所へ出向いて、適切な対応をいただく。

「付き合わない」としたことについては、生家の法事あるいは家族の危篤の際にも泰義の顔出し無用とする。親爺・姉貴ほかが許してもそれに関わらず認めない。

今後は次兄泰義のことを泰義と呼び捨てにする。

泰義の付き合うとは恩人の死に臨んでも無視していることなら、付き合わないで大いに結構。付き合う付き合わないとけじめは話は別。

親爺も姉貴も弟も、入院中に見舞いに訪れ、仏壇に参り、忌明けの儀に出席しているのに、泰義一人知らん顔をしている。香典を書留で送りつけるだけ超失礼な振る舞い。それも嫌々ながらだとわざわざ電話してくる始末。書留が届く前に送り返せと言わんばかりの電話では受け取り拒否するしかない。

これまで、2回電話して、2回手紙を入れているが、泰義からの直接のアプローチは一つも無い。随分、偉くなったものだ。

面白いもので、香典は貰っていないけど香典返しを贈ってあげたら黙ってもらってくれた。損得しか考えないみたいだね。

生家のホープだったはずなのにどういう訳か。残った兄弟の仲では一番苦労したのに人間が曲がってしまったのかな。

「はな子」様から、「生家のうちでは、やっちゃんがいちばん”もつけねえ”。あたまがいいし、すなおなやし。そのだけ苦労もやっちゃんにまわってきてる。生家のうちをたてなおすのはやっちゃんしかえん。やっちゃんからなんかいうてきたら、たすけてあげなあかんざ。ゆいごんしとくさけの」って言われていたが、肝心の本人は何処吹く風ではね。生家の再興なんて殆ど考えられない。

結局、泰義もアホ兄弟の一人でしかなかった訳だ。

正弘さんの収支

今回の葬儀、正弘さんの収支を見るとなかなか厳しい。と言うのは、この葬儀は完全に内輪で親戚筋だけの参列イベントにしたが、収支のためにリストを作って横並びで見ていると、少々具合が違っている。

「入の部」

  • 香典:1万円
  • 霊前:5千円
  • (計1万5千円)

「出の部」

  • 会葬礼:2千100円
  • 通夜食:500円
  • 直り食事:5千円250円
  • 引出物:3千150円
  • 香典返し:3千円
  • 忌明け食:5千250円
  • 引出物:3千150円
  • (計2万2千400円)

収支としては完全な持ち出し。普通は少なくともとんとんのレベルにするものだが、香典も少ないし、見舞いも出ていないから、収支はこういうことになる。 気立てが良いから、お袋は「マーちゃん」を本当に子供の頃から可愛がっていたが、こういう切り口で見ると意外な側面が出てくる。自分の母親がお世話になっていることも考慮すると、大分ずれた印象だ。慎一郎さんと比べるのは酷だが、奥様の考え方の違いも大きいのかも知れない。

収支は二の次だね。気持ちよく参列してくれて、哀悼の意を表してくれたことに何をおいても感謝したい。

例の、西東京の義夫妻に、正弘さんの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいくらいだ。

政行の打算

末っ子の政行は我が儘いっぱい。躓きは東京移転。自分の空間は家にも学校にもない。親兄弟が仕切るろ牢屋の中。親兄弟を頼るしかない。勉強する環境も無い。学力が尽く訳は無い。馬鹿な選択と思ったが、せざるを得ない選択だったのだろう。中卒で就職。

万事が受身。自分で切り開くことが出来ない。親爺の、兄貴の、姉貴の、それぞれ都合に合わせているだけ。自我喪失。

いつの間にか、残された道は、親爺の寄生虫。共生っぽく演出しているが本質はパラサイト。自分で働いて助けているなら共生だけど、自分の働きはまるで当てにならない。

自分の周りから、兄、母、父と去って行く中、いつ自分としての決断をするんだろう?

敏夫よりずっと問題が多いことにいつ気付くのか?

ホテルへ送る車中で

ホテルへ寅雄、美枝子、政行を送る。

話は10年1日の如く。責任感のかけらも無い会話だ。責任感が無いから、けじめも無い。けじめが無いからスタンスも取れない。その場を口先でしのいでどうしようというのだろう。人間としての覚悟が無い。

寄生虫。

寅雄の年金に群がる寄生虫。寅雄は後数年で天寿だ。次は美枝子の年金に群がるのか。美枝子の年金は多くない。政行の年金はもっと少ない。

美枝子は寅雄の金で入間のマンションを自分名義で購入。直接・間接で寅雄の金の世話になっている。自分の城は守る一方で、池袋でパラサイトは続ける。最後はマンションを売ってシルバーホームに駆け込むかな。政行は何も無いまま一人取り残されて、敏夫同様に生活保護を受けるのだろうか。

「世間を狭くした」って?

美枝子姉が伝えたこと。生家の不義理に腹を立てて手紙を書いたら世間を狭くしたと返してきた。本当の意図は分からないが、状況から見て適当な言葉選びでない。 恩人の葬儀、身内の葬儀に顔も出さない、挨拶もしない連中こそ世間を狭くしている。 もっと以前に、自分の子供を外に出すことで十分に世間を狭くしている。親爺は結局何の説明も出来ない。忌明けの宴席に回って、遠いところ・暑いところ有り難うと挨拶をしても、にこにこと腑抜けた様子だけで、何の言葉も無い。 はな子さんが生きている間は、はな子さんをさておいて世間に出せなかったのを今回を機会に世間に出そうとしたら、まるで頓珍漢。恐らく生家の誰も本質を理解していないだろう。 ヤスコ義姉に限らず、外から来た人間は誰でも、生家とは付き合いたくないとはっきり言っている。それが世間の常識。失踪者、生活保護受給者、定職の無い独身男、年金だけの老人、家族の犠牲になった行かず後家。親爺の年金を目当てに寄り添うように生きているようにしか見えない。外から見れば、誰が考えても、損することはあっても得することは無い。 幸か不幸か、泰義ほどには尻に敷かれていないので、今回、法事の席を用意できた訳だ。 それをさておいて、世間を狭くしたは無いだろう。

泰義の妻 -2

ヤスコははな子の危篤を聞いても、逝去を聞いても、何もしようとしない。生家の人間の常識を疑っていたヤスコ自身がいつの間にか非常識人間に落ちぶれていたのだ。 泰義は勿論、もっと非常識で話にならない。完全にヤスコの尻の下に敷かれている。ふがいない男に成り下がっていた。葬儀の場所から電話したときも間の抜けたやり取りをしていた。思わず「元気ないね。体調悪いの?」と聞いてしまったが。 どんな連絡もヤスコの検閲を受けているようだ。それに安住していることで世間から逃げているのかも知れない。 ヤスコは、だから義姉としての振る舞いは全く無いにも関わらず、お付き合いはしないと言って来た。今までの何もしない状態がお付き合いなら、お付き合いはしないとはどういうことだろう。面白いことを言う泰義の妻であることか。 ※ 親爺も姉貴も弟も、仏壇にお参りして、忌明けの儀式に出席して、それぞれお香典、ご霊前を出しているにも拘らず、泰義夫婦は一切何もしない。催促される形でお香典を送ってきたは良いが、ヤスコは嫌々する香典であると電話をしてくる始末。故人に対するお悔やみも無く、要するに受け取らないで送り返して欲しいと言って来た訳だ。で、そのように送り返すしかなかった。 泰義夫婦は本当に何もしない。お金が惜しいからだろう。 何も貰っていないけど、香典返しは送り届けた。これ、送り返してくるのかな?。ヤスコの頭の構造が少しは理解できそうだ。

泰義の妻

泰義の妻ヤスコは最初は気立ての良い人だった。常識もわきまえていた様に思う。今思えば、泰義に惹かれての結婚だったのだろう。本当に可愛い新婚さんだった。 生家の状況を知るようになって、ヤスコは徐々に生家と距離を置くようになった。泰義は聡明だから早々と寅雄から離れていたことも、客観的に物を見ることができた要因だったろう。生家の人間のある意味でのだらしなさ・ふがいなさは、所謂親戚付き合いを躊躇わせるに十分だった。 まともな職業についているのは、手に職をもった泰義一人だったから。敏夫はごろごろしていて漸く結婚式とか家族のイベントの写真とかビデオとかを撮影して編集して納める仕事をするようになったが、安定した仕事ではない。 政行も結局定職が身に付かず、遂には敏夫の手伝いに納まっている。 英雄は学歴は無くても頑張りで普通にサラリーマンに近いことをやっていたが、転職に失敗して、挙句借金までこさえて、失踪の憂き目に遭っている。 寅雄は耳の遠いことも手伝って、それに言葉が立つわけでもなく、人前に出しにくい状況。子供らがそういう扱いをしていることの方が問題で、けさをが見たら悲しむだろう。 美枝子は常識は持ち合わせているが、結局家族のために結婚もしないで時を過ごしすぎた。 こういう連中を親戚縁者の集まりに呼ぶのは、人間が小さいヤスコには耐えられなかったのだろう。

生家没落の理由

既に幾つか分析してきた。
  1. 敗走して東京へ逃げるまで。
  2. 東京で建て直しが出来ないまま今日に至るまで。

「寅雄の最初の過ち」

  • 祖父が確立した地場の信用を全く継承しようとしなかった。
  • 出稼ぎに走る寅雄。急場しのぎでなく常態化した。お気楽大工稼業。その究極の姿が東京への引越し。
  • 家にいないのだから、家の中が纏まることは無い。子供たちをリードすることもできない。
  • 気楽なシングルライフの出稼ぎ。自分ひとりのことしか考えていない。子供の成長、生き方を考えていない。
  • 田舎は仕事が無いといっても全ての大工が出稼ぎに出ていたわけではない。

「敏夫の不明不徳あるいは無知無能」

  • 戦争で手に負傷した父親、家にいない父親、経済的に行き詰っている家計。これを見て、中学時代を送った長男はどういう志しを抱いたか。
  • 中学時代に何を考えていたかは不明だが、卒業後に何をやっていたかで、器量の小ささがはっきりする。
  • 夜逃げ同然になっているときでも油絵がどうのとやっているんだから、どんな親も救われない。
  • 馬鹿な、愚かな父親を見て奮い立つのが普通なのに、この男は輪を掛けて愚かと来ている。生家の身代が潰れて行くのを指をくわえて見ていただけの最低の男。

「雇われ大工根性から抜け出せない寅雄」

  • 泰義の勉学も犠牲にし、英雄、政行も引き入れて、大工の稼業の体制は整いつつあったが、チームとしてのマネジメントは出来ない。泰義をリーダーに立てる根性も無い。
  • 敏夫は放置したまま。
  • 美枝子の結婚には心を砕かない。
  • 信幸の教育費の面倒も見ない。
  • やっているのは相変わらず、雇われの大工。抜けない奉公人根性。
  • 根性はサラリーマンと同じ。そのくせ、稼業みたいにして子供に教育機会を与えない。

「生涯居候を決め込む敏夫」

  • 母親に甘えているが、結局は父親も甘やかしてきたのだ。何もしないで家にいる。それを何十年も許している。
  • 母親が死んでからは兄弟の前に顔を出すことも出来なくなった。
  • 東京に移ってからの敏夫は腑抜けと同じ。環境が変わって考え方が変わるかと思えば一日中流しにたって手を洗っている始末。他の子供らがまともに育ちようが無い。

寅雄と敏夫は同罪か。少なくとも、愚かでも寅雄は家族に飯は食わせてきた。それも相当高齢になるまで。敏夫はまだ何もやっていない。今でも言い訳しながら生きている。東京都の生活保護を申請しているらしい。死ぬまで自分で自分を食わせることが出来ない。虚弱児でもなんでもないのに。

敏夫がまともとして、生家は持ったか。寅雄の雇われ根性のままだったら、そのくせ家では王様で振舞ったら、結局、俊夫も泰義のように家を出るしかなかったかもしれない。

敏夫のアホ振りは巣食いようが無いが、寅雄の家督委譲もしない、守ることもしない、その無能ぶりは最悪。

一番、まともに見える泰義はどうか。あの親爺では話が成立しないだろう。一家を仕切る気が芋感じられない。女房の知りに敷かれているだけでは所詮先は見えている。

家の誇りの再興は、ゼロからのスタートだ。寅雄が潰してしまった身代の再興に当たって、家督たるものは何か。まさか、桶屋で始める訳でもあるまい。木工!。

年賦

 
 年賦はダウンロードして印刷でもしないと見えないかもしれない。 
 これを書いてみたら、「家」を没落させて行く様子が良く分かる。

決別の時

薄情で、だから子供らが没落の犠牲になったことに何の反省も示さず、身勝手に、生きて死んで、後は野となれ山となれ。そんな父親。時間は取り返せない。けじめもつけない。昔、人生観の話を聞いたら、人に言うことで無いと逃げたが、実際はどういう心境か。 もう死んだと思うのが良さそうだ。葬式にも顔を出さないのだから、もう頭は死んでいるんだろう。 最初の犠牲者を出した時の恩人を見送ることもしない。 子供たち。揃って、恥知らず。自分が辛かった思いはあるだろうが、その前にもっと深刻な事態があったこと、最初の犠牲者に思いやることを何も出来ないのだから、どうしようもない連中だ。救われない。 心が通う以前に自分の成り立ちを理解していなければ、正しい明日は来ない。ばらばらのままか。

生家の父親

寅年生まれの男は長男ではなかったが、長兄が他界する中で生家を継ぐことになる。 京都に出ていて、急遽、家に戻されたのだろう。 戦争に出て生きて帰ってきたのだが、弾丸を受けたのだから一つ間違うと命を落としていた。 戦争で手が不自由になったことが、この人の言い分けだ。 生家を何とかしようとも考えていない。勝手に東京へ出て道が開けるならまだ良いが、只の夜逃げじゃないか。子供たちに大きな犠牲を強いておいて、何も言わない。止むを得ない事情なら、事情を言うべきだ。 ※ 出稼ぎなんて安直な無責任な方法が先ずいけない。 長男は中学を上がったら直ぐに大工を手伝わせるべきだ。家業なんだから。 次男も同じ。長女も同じ。木工の内作はできる。 家を固めて、力を合わせてやるべきだ。 ※ 生家は父親のミスリードで全てを失ってしまった。兄弟のファミリーが広がってしかるべきだが、そういうものは何もない。 馬鹿な父親だ。手を怪我したのなら、木工とか内作でやるしかない。東京なんかへ出たら何も出来ない。サラリーマンならまだしも、稼業があって地場を離れるものか。 ※ 父親の一番苦しいとき、手の怪我をまだ克服できないときに、最も頑張らなければいけなかった長男のふがいなさが最大の要因。長男は一家を背負う気概もなく、一生お荷物になってしまった。 長男の我侭を許したのは母親かもしれない。母親の懐に逃げ込んで、ずっとそのままだ。 父親が家を空けているからそうなったのだろう。薄情ものなのだ。 こういう馬鹿親子の犠牲に先ずなったのが、四男。もっとも酷いやりかただ。捨てたのと同じだから。次男も三男もやがて犠牲になって行った。 五男は愚かだったし、適切な導き手がいなかった。 ※ 四男が高校に入るときに、父親は奨学金の援助も拒否してきた。生家没落の最初の犠牲者に、何のかんがいもなく拒絶。こいつは親か。 ※ 父親は本当に薄情ものだ。家族のイベントがあっても殆ど声を掛けてこない。子供の家で大事があっても出てこない。薄情なのだ。これが全ての要因の出発点かもしれない。相手のことを何とも思わないのだ。 東久留米の姉さんが生家を嫌になって当然でしょう。 ※

生家の五男

末っ子。 子供の頃は愚かだった。只の甘えん坊。我侭いっぱい。それでも、小学校の低学年で東京へ転校したから、余計な苦労をしただろう。 末っ子の頃は家計は落ち着いていて、進学は出来たのに、理屈をつけて勉学を拒否した。本当に馬鹿なんだ。手に職を持つといっても資格もなくて仕事は出来ない。 結局、普通の勤め人にもなれず、今は不出来の長男を手伝っている。父親の年金を当てにずっと居候しているんだ。 「はな子」が四男を引き受けてくれなければ、五男は世の中に存在できたかどうかも分からない。

生家の三男

失踪中。 中学を上がると同時に上京。大工の仕事を手伝う。何年? 理髪師・美容師を目指す。挫折。理由は知らない。 アパレルの営業。これは長い。 携帯電話の事業に首を突っ込む。平成電電だったか。経済の根拠を失ったかもしれない。前後は分からないが借金して家を買った。これの始末は失敗したのではないか。個人破産を先にやれば失踪しなくて済んだのに。 相談できる雰囲気も無かったのか。 兎に角、一番良く遊んだのが三男だ。

生家の長女

長女は只一人の女性。母親を助けて家事をやる一方、中学を上がると直ぐに働きに出たが、何処にでもいる女工の類だから稼ぎも知れている。続いたかどうかも怪しい。 都に出てからは、都関係のどこかの職員にもぐりこんで、どうにか生きるすべを得た。結婚の話は出たりもしたが、家の状況を見て諦めざるを得なかったのではないか。 運命を受け入れて、その中で最善を尽くす。そんな感じだ。母親がなくなった後も、家事を続ける。 両親は、子供たちを何処までも食い物にしている。今も尚です。でも、長女はちゃっかりマンションを買って老後に備えている。既に60代後半。 長女は常識人に近いから、葬儀にも顔を出す。

生家の長男

長男は自立する気配は無かった。子供の頃に自分の書いた絵が天皇陛下に褒められたのが逆に仇になった。かすかな記憶だが、赤い朱印が押されたのを見たように思う。その誇りが進学も儘なら無い中、仕事に付くこともしないで、絵を描いていた。兄弟の犠牲を踏み台にして趣味をやっているんだ。 故郷を夜逃げ同然で出て行く時の長男の年齢は既に24歳。母親に甘えるだけで、今で言えば精神的な病気になっていた。いつしかカメラの万引きに手を染める。質屋にながして小遣いを得る。絵の誇りはカメラ好きに変わり、万引きを卒業して、漸く結婚式場の写真撮影のアルバイトにありつく。写真からビデオへと移って少しはキャッシュを手に出来るようになる。 長男が40歳を越えた頃、頼りの母親は命を引き取る。自立への圧力たかり、生活力が出来たかというとそうではない。実質的に父親の世話になっている。 長男も、既に70歳を過ぎて、今は都へ生活保護の申請をしている。 子供の頃は一番えらかったし、自分だけ専用の部屋を貰っていたし、王様だった。何故、堕落した人生を進めたのかは知らない。誰もかも踏み台にして、自分のことしか考えない。 この男は日頃から感謝も何も無い。犠牲になった弟を思いやることも出来ない。弟を預かった先に感謝を述べることも無い。 その恩人が亡くなっても、悔やみ一つも言えない。 こんな男を生かすために、弟は犠牲になったの?。馬鹿げている。

生家の次男

生家は、次男も苦労した。 高校へ進学したのに、学費が続かないということで退学を余儀なくされた。だったら最初からダメというか、アルバイトしてでも最後まで頑張るか。まだ少年。新聞配達では高が知れている。親が費用を出すしかない。悔しい思いをしたにちがいない。 退学して、しばらくは名古屋に行った。親爺の仕事を手伝う形だ。一度だけ、名古屋へ行った事がある。次男は懐かしく思って顔を出してくれたのに、うっかりしていたら帰ってしまった。寂しい思いをさせたかもしれない。 弟が犠牲になっても自分が助かったとは認識できなかっただろう。親と引き離される苦しみは想像もできなかったろうから。 東京へ移っても最初は父親を手伝っていたが、そのうちに面倒見てくれる棟梁がいて、父親から離れることが出来た。25歳になった頃には結婚も出来た。独学で建築士の資格も取った。変な宗教に関わったこともあるが、なんとか一家を構えて自立した。 その後のことは分からない。妻になった人が生家との付き合いを嫌うから、自然行き来がなくなった。理解は出来るが、それでは済まされないこともある。恥ずかしくて親戚の前に出せないということらしい。だから付き合いは最低限にしたいと。まだ発想が幼いね。 問題は妻だけか。妻が見栄っ張りなら、逆に安心かも。 それでも次男を褒めることはできない。 弟が真っ先に家の犠牲者になったこと、その時に手助けしてくれたのが「はな子」と言う事を、忘れている。嫌な過去と一緒に。百パーセント自分で頑張ったと思いたいのだろう。 浅はかだ。一番、しっかりしているはずの次男が、実際、一番しっかりしていたのだけど、その次男でさえ自分を助けてくれた存在に思いをはせる気持ちが無いのは残念だ。その程度でしかなかったのか。 ※ 恩人への感謝も忘れて恥を知れと手紙を書いたら、香典を送ってきた。しかし、妻なる人からいやみの電話を入れてくる始末。そんなもの出したくないけど兎に角送ったと言うのだから受け取ることは出来ない。心の無い香典で「はな子」の怒りを買う前に送り返した。 次男は、家の中に犠牲になった存在があったということすら認識することすら出来ないのだろう。愚かだ。だから、妻の愚かさにも何も出来ない。可愛そうに、きっと今でも心に傷を彼なりに抱えているのだろう。

生家

葬儀で思った。生家の人たち。まともに葬儀に顔を出す人は一人もいない。全くの赤の他人が無くなったとしか思っていないのだろう。「恩を仇で返す」ようなもの。 昭和20年代の生家は完全に行き詰っていた。多くの子供がいるのに稼ぎが殆ど無い。馬鹿な主は食い扶持を減らせれば子供を外に出すのをなんとも思わなかった。嫌、家族を救うために犠牲者を作っても構わないと思ったのだろう。 生家から一人の子供が外に出された。子供は十字架を打ち付けられたように生きて行くしかなかった。 生家は犠牲者を出したが、それでもぎりぎりの生活は続いた。主は太平洋側の大都市への出稼ぎを続けた。運よく残った子供たちも決して楽ではなかったが、それでも犠牲者を新たに出さないで済んだ。かろうじて子供たちは学齢期を終えることが出来た。一人ひとりが働き手になって行くことで生家の危機は回避できた。その間、家は故郷の町を捨てて、東京の下町に移り住んでいた。 兄弟の一人を犠牲にしているにも関わらず、生家の人間は自分のことしか考えていない。というより自分のこともまともに考えていない。 長男は自立する気配は無かった。子供の頃に自分の書いた絵が天皇陛下に褒められたのが逆に仇になった。かすかな記憶だが、赤い朱印が押されたのを見たように思う。その誇りが進学も儘なら無い中、仕事に付くこともしないで、絵を描いていた。兄弟の犠牲を踏み台にして趣味をやっているんだ。 故郷を夜逃げ同然で出て行く時の長男の年齢は既に24歳。母親に甘えるだけで、今で言えば精神的な病気になっていた。いつしかカメラの万引きに手を染める。質屋にながして小遣いを得る。絵の誇りはカメラ好きに変わり、万引きを卒業して、漸く結婚式場の写真撮影のアルバイトにありつく。写真からビデオへと移って少しはキャッシュを手に出来るようになる。 長男が40歳を越えた頃、頼りの母親は命を引き取る。自立への圧力たかり、生活力が出来たかというとそうではない。実質的に父親の世話になっている。 長男も、既に70歳を過ぎて、今は都へ生活保護の申請をしている。 子供の頃は一番えらかったし、自分だけ専用の部屋を貰っていたし、王様だった。何故、堕落した人生を進めたのかは知らない。誰もかも踏み台にして、自分のことしか考えない。 この男は日頃から感謝も何も無い。犠牲になった弟を思いやることも出来ない。弟を預かった先に感謝を述べることも無い。 その恩人が亡くなっても、悔やみ一つも言えない。 こんな男を生かすために、弟は犠牲になったの。馬鹿げている。

書留郵便の受け取り拒否

泰義名で届いた現金書留を送り返す。受け取り拒否にした。6月14日?

前日、ヤスコ義姉から、電話が入る。今まで、無視していたけど、手紙を貰ったから、嫌々だけど香典を送ると。

これは、持参なんかする腹は全く無いし、仏前に手を合わせることもするきは無いことの意思表示。だから、形だけ書留で送って済ますものだが、その香典にしても出したくないと言っている。

全く、馬鹿にしている。そんな心の入っていないもの受け取れますか。

郵便やは、珍しいので驚いたが、それくらい不誠実な態度だ。泰義に電話することはあっても、向こうからは電話の一つも無い。

はな子の遺言を翻すことになるが、泰義に家督なんか継げる訳なかったんだ。最初から、根性が捻じ曲がっている。



後、香典返しを贈ったら、黙って受け取っている。

死亡連絡

6時25分死亡

はくれん社 8時30分 来院依頼。(遺体引取り)

宮越さん、山久保、池袋、子供へ電話。

病院からの呼び出し

はな子さんの息遣いが怪しいので、病院に来るように連絡があった旨、筑後より電話。

これまでも、騒ぎが何度かあったから、同じようなことか。今度は、脳梗塞の後だから深刻か。
田舎のお袋を何とかしないといけないと思っていた。ずっと。重石のように心にへばりついていた。それは田舎を出てから、今日のこの日までずっと。

就職した後、東京へ移るタイミングか、転職を検討し始めた頃のこと。最初は、田舎で再就職をと思って、少し探してみたが、お袋自身があまり積極的でなかった。

それから数年。好きなお出かけに勤しんでいた日々だったのではないか。でも神は黙ってみていてはくれなかったみたい。バスの中で倒れて入院。家人を田舎にしばらく帰して退院を待って東京へ来てもらった。

延べ床100平米に近いテラスハウスは東京では決して狭くないが、クレームされた。自然が遠い。土がないのだ。田舎ものに容赦しない老人もいた。

信州に別荘兼用の家を建てる算段を始めた矢先、お袋はとっとと田舎に帰ってしまった。全く、処置なし。今尚、誰の手引きか分からない。その後は、あまり親子と思わないようにした。それに計画は止まらないから、その後は経済的にも結構苦しい日々を迎えることになった。

ある意味では、自分の人生はお袋の我侭に振り回されて来たようなものだ。

家事はやらない。子供の頃からの大切な記録類は勝手に全て捨ててしまった。ひどい話だ。もう恨みを言うことも出来ないけど。家を離れたら、直ぐにいろいろ始末を始めているから、許せない。
母一人、子一人になったときは世間が辛かった。何故自分だけの思いがずっとあったな。まだ多産が多い頃だから際立っていたと思う。

英会話のレッスンの席で、自己紹介も嫌だったな。寂しい家族状況を話さなければいけないから。

負の遺産

友治が早くに死んだ。友治は結核を患っていた。だから、自分の肺にもその痕跡がある。はな子は友冶が自分に近づいて密着することを嫌っていた。感染を心配していたのだ。症状は出なかったけど、人間ドックで調べると感染して封じている状況があるらしい。歳を取るとまた騒ぎ出すかもしれない。

感謝

お袋様

感謝の言葉を送ります。誰もが思うよりもずっと長く生きてくれて感謝します。今、自分の心にあいた穴の大きさを考えると、お袋様がずっと心の支えであったことが改めて分かりました。親の思いは形は見えなくても、ずっと自分を包んでいてくれたのだとも。

今回の脳梗塞は文字通り致命的でした。ややもすれば回復して退院も適うかなとの期待を吹き飛ばしてしまいました。親が何歳になろうとも、子は親の更なる長寿を願ってしまいます。しかし、今度ばかりは観念せざるを得ません。本人が頑張っているのに、子供が先にギブアップするのは恨みを買いそうですが、今は出来るだけ苦しまずに、安らかに旅立つことを祈らざるを得ません。

4歳直前から、19歳直前までの15年間の生活。本当に短い間だったけど東京での生活。でも、それだけが、お袋様との時間ではなかった。顔を合わせていなくても何かを通わせていた。それを失うのは本当にさびしい。せっかくリタイアして時間が自由になる矢先に、ピリオドを打ってしまうとは。息子の人生を見極めて、安心して旅立つなら絵になるけど、本当はもっと楽しいことを考えていた筈。ピリオドを打つのは今までの苦労の筈。

人生にたらればは無いけど、それでもいろんなたらればが思い浮かぶ。それらも、今は、一緒に送り出すしかありません。

誕生日

先の脳梗塞で言葉が話せなくなって、更に左半身不随になってから、3週間が経過した。自分の誕生日まで持つかどうかと思っていたが、クリアした。只、先週末から排尿が出来なくなって点滴も出来なくなってきた。実際は点滴は続けているのかもしれない。

看護婦さんからは今週が山とか。

回りでは葬儀の段取りを改めてチェックし始めたかも知れない。

母親の誕生日は9月。これのクリアはかなり難しい。

排尿が止まる

日曜日の連絡。それ以前から、排尿の量がどんどん減ってきていて、点滴が殆どむくみに回っていたと思うが、更に排尿が悪くなっていった。田舎からの連絡では、持って今週いっぱいの観測が看護婦さんから示されたとのこと。

危篤連絡

医科大学へ入った時点で見舞いを受けたし、東医者に移ってからも多くの人が見舞って下さった。

ただ、快方に向かって来たので危篤と言う感覚からは離れてきたが、東医者さんのお話では依然危険状態であることの理解が正しいとのこと。

自分の手で食事が取れるくらいまで回復していたが、5月初日に起きた脳梗塞は従来のものよりかなり重度なもの。

すわっと言うことで駆けつけたが、言葉のコミュニケーションは殆ど無理。ただこちらの言うことは伝わっているみたいで、わずかに動く手・口・まぶたでもって応えてくれた。

点滴での栄養補給でむくみは更に悪化するだろうと思う。

1週間ほど病院に通うが、ぎりぎりのところで症状が安定しているので、一旦、自宅に戻る。

現在は常に危篤状態のようなもの。ケサオさんのときも似たような状況になって、最後に言葉を交わすタイミングが得られなかった。というよりまさか死ぬとは思わなかった。

危篤連絡は、意識のあるうちに連絡しないと、後で寂しい思いをするものです。

喪家(そうけ)の行い

死者を出した家。西日本ではモケと読むことも。東日本では葬家と書いてソウケと読むこともある。確かに、喪家と書いてソウケとはなかなか読めない。

「喪家のなすこと」
  • 危篤の段階
  • 臨終の段階
  • 葬儀の準備
  • 通夜
  • 葬儀・告別式
  • 火葬
  • 精進落とし
  • 葬儀の後


  1. 危篤:
    危篤状態になったら、最後のコミュニケーションの機会が取れるように、あるいは臨終に立ち会えるように、近親者の招集をかける。必ずしも親族に限らない。近頃は前もって死期の推定が出来ることも多いので、早めの連絡が可能だが、本人に返って不安を与えるようではいけない。
  2. 臨終:
    清め式

誕生日プレゼント

VERA PELLE ITALIANA CONCIATA AL VEGETALE

No.0799965 E

Minerva Box

株式会社スリップオン
渋谷区広尾1-3-15電話03-5791-3883
http://www.slip-on.co.jp

*

はな子さんが誕生日まで頑張ってくれたから、誕生日プレゼントが間に合った。いつもはもらえないものがもらえたのは今年はやはり何か違うということだね。

養子縁組

4歳になる少し前に、寅雄・けさをの元を離れて、養子縁組をする。はな子は既に35歳。

この養子縁組を取り持ったのが、町内の野村夫妻。

飛行機のおもちゃの話が出てくるが、そのことはまた罪を残した。飛行機のおもちゃを買ってあげるからと言うことで連れ出したのだが、結局、買わず仕舞いで子供心にも恨みを残した。後日、飛行機のおもちゃをはな子にねだる時があったが、はな子は野村へ行って貰ってこいと言って済ませていたから、子供の人格・人権などは意識の外、親の心の持ち方としても普通ではなかった。

バス中での転倒事故

「はな子」は既にいい年になっていたこともあっただろうが、バスに乗っていて転倒事故を起こした。バス会原因がバスの運転にあるかないかは分からないが、バス会社からは何の挨拶も無かった。

兎に角、入院先へ家人に介護に出てもらうだけで頭がいっぱいになっていたようで、原因も本人の病気という判断だけだった。

既に70歳前後だから、一人老人はやはり問題だと言う判断をした。

まつ

「まつ」は「はな子」の母親であるが、あまり印象が良くない。末っ子の次女を可愛がり、長女には冷たかった。「はな子」が脳に傷を持ってハンディキャップがあるから、更に冷たく当たったのか良く分からない。その辺も甚作がはな子を可愛がった要因だったのだろう。

「まつ」は1962年頃に「甚作」を追うでもないがなくなった。この時は、あまり感傷も無かった。




直接は誰からも聞いていないが、マツははな子の本当の親ではないかもしれない。戸籍を調べると母親はマツとなっているが、3人兄弟で一人だけ歳が離れていることを考えると、人作ははな子を可愛がったことを考えると、マツは多分後妻なんだろうと思う。

マツは栄子を可愛がりはな子を遠ざけた節がある。そのことをあからさまに、まだ子どもだった私の前で言いのけた。相手を子どもを舐めて掛かっていたのだろう。マツは年とともに性格が悪くなっていったように記憶する。

転落事故

「はな子」がまだ子供のころ、農作の手伝いをしていて、稲を干すハサバ、これは竹で組んだ背の高い垣根と言ったものだが、どうもここから落ちたらしい。詳しいことは聞けなかったが、この時に頭部に外傷を負い、内部も少し痛めたようだ。これが、10歳の時とすると、1927年頃の話と言うことになる。

この時の傷は、ずっと後まで尾を引くことになった。

「はな子」は食事を取るときに、毎回ではないが、ある頻度で、手にした茶碗を思わず放り投げるので、知らない人はもちろん、分かっている人も大いに驚く。

ただ、年齢が上がるとともに、頻度は少なくなっていった。あとから「はな子」を知るようになった人では、そういう持病の存在も分からなかったかもしれない。

霞町の家

霞町の家は甚吉が建てたものである。その頃の年齢は分からないが、大工の棟梁と言うよりは見習いに近い頃の仕事ではなかったろうか。

震災で廃材になったものなども利用したのではなかっただろうか。粗末な半2階建てくらいの作りであったが、当時の友治・はな子夫婦には十分なものだっただろう。

福井震災(福井自身)は昭和23年6月と記録があるから、その1,2ヵ月後の仕事だったのではないだろうか。

新たに作ったものか以前のもの立て直したのかは分からないが、甚吉がなす工作の一つ一つに友治が注文をつけていて、「はな子」は大いに困ったと後で話をしていた。友治が注文したことが功を奏したかどうか、その貧しい家は21世紀まで生き延びた。

甚吉の死

甚吉の死は唐突に訪れた。

体調が悪いながらも、甚吉ははな子を医科大に見舞うことが出来た。2008年3月のこと。

しかし、原因不明の病で右足を不自由しているだけで収まらず、4月に入ると危篤状態に陥る。約2週間の戦いの果てに冥福となった。



入院中の「はな子」には「陣吉」(あんちゃん)の具合が悪いことを伝えるが、その死を伝えることは無かった。はな子が気落ちして回復をあきらめることのないことを祈ってのことだ。

甚作の死

甚作は自分の死期が分かっていたようだ。自分が死ぬ数日前に、嫁ぎ出ていた長女の家と次女の家を訪問した。はな子は仕事に出ていたからだろうが甚吉に会うことはできなかった。記憶は正確ではないが1962年頃の夏ではなかったか。

甚作

甚作の出生のことは良く分かっていない。1890年頃の生まれではなかったろうか。

でもしっかりした人物であったことは間違いない。昔はみんなそうだったと言うがその中でも働き者だったのではないか。厳しい人間でもあった。

多分、次男だったのだろう。長男の家に隣に家を建て新家(あらや)を構えた。

はな子は所謂父親っこだったようだ。甚作がはな子を気遣う雰囲気は良く分かった。

兎に角、何でも一生懸命に取り組んだという印象がある。

誕生

はな子が生まれたのは、大正6年9月3日。巳年である。蛇年である。越前福井の山間にある20軒ほどの小さな村である。「甚作」と「まつ」の夫婦の最初の子として生まれ、はな子の後に長男の甚吉、次女の栄子が続いた。

大正6年

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